「いつか」は行動しなければ、ずっと「いつか」のまま

講師紹介
今回は、フルートはもちろん、他の楽器も音楽も、これまで一度も習ったことがない状態からレッスンを始めてくださった、50代のJさんの記録をお届けします。
個人が特定されないよう、一部詳細をぼかしてお伝えしています。
1. 「好きな音楽を、自分で吹いてみたかった」

Jさんが体験レッスンにお越しになったのは、50代に入られてしばらく経った頃でした。フルートはもちろん、他の楽器も、音楽を習ったことは一度もなかったそうです。それでも「好きな音楽を、いつか自分で演奏してみたい」という気持ちだけは、ずっと持ち続けていたと仰っていました。
Jさんがお好きだったのはジャズでした。仕事中や移動中、よくジャズを聴かれるそうで、「聴いているうちに、自分でも吹いてみたくなった」とのことでした。ではどの楽器で、と考えたとき、Jさんが選ばれたのがフルートでした。
優しく、耳に馴染む音色が好きだった。そして、自分の趣味として続けやすそうだと感じた、と。「定年になったらゆっくり始めようと思っていたんですけど、私は楽器を習ったこともないし、待ってたらいつになるかわからないと思って。」
その言葉を聞いたとき、私は、Jさんが「今」を選んだことの意味を感じた気がしました。「時間は有限」とはよく言ったもので、「何か」に夢中になっていても、「まあまたそのうち、いつか」と思っていても、時間は平等に過ぎ去るのですから。
Jさんの場合、好きな音楽も、目指したい方向も、最初からはっきりしていました。だからこそ、その音楽に必要な奏法と基礎を最初から意識しながら、カリキュラムを組むことができました。
2. 数ヶ月後、最初の壁は「音が出るかどうか」ではなかった

体験レッスンのとき、Jさんは楽器をお持ちでありませんでした。当教室の貸出楽器を前に「音、出るでしょうか」と、とても不安そうに仰っていました。Jさんに限らず、最初に音が出るかどうかに対する不安は、フルート初心者の方はよく感じられるのではないでしょうか。
結論から言うと、Jさんは体験レッスンで音が出ました。つまり、前述したJさんのご不安は結果として杞憂に終わったのです。ただ、私が最初に感じた課題は、音が出るかどうかではありませんでした。
楽譜が全く読めない状態だったことと、一番の懸念は「感性や音感をどこまでお持ちなのか」でした。
楽譜を見ても、どんな音なのかイメージができておらず、鳴ってみないと分からない。音楽を聴いてみないと分からない。これは大きな武器になるとともに、核心を突く弱点にもなりうる要素なのです。
しかし、長年ジャズを聴き続けてきたJさんには、好きな音楽を知っている、耳が育っている、という確かな土台がありました。つまり、感覚的でありながらも「音楽的に」音楽を聴くことができていたのです。これは、Jさんのレッスンを進めさせていただくにあたり、大きなポイントでした。
音に対する感受性、好きなフレーズへの反応、「これだ」という感覚… これらは、楽器を始めてから育てようとしても、そう簡単には手に入らないものです。ただ、その耳を自分の体と楽器で再現するためには、別の回路を作っていく必要がありました。
フルートという楽器は、音を出す・楽譜を読む・指を動かす、これらを同時に進めていく必要があります。息の角度やスピード、アンブシュア、唇の形と使い方などが揃って初めて、安定した音が生まれる。Jさんのカリキュラムは、この3つを無理なく並行して育てることを、最初の方針にしました。
3. 半年後、自分の楽器を購入した日

レッスンを始めて半年が経とうとした頃、Jさんがご自身で購入されたフルートを持って、レッスンにお見えになりました。これまでは教室の貸出楽器を使っていただいており、これは環境は勿論、心理的にも大きな変化でした。
昨今、楽器の価格は以前と比べて相当高くなっています。当時も「値上がりしたな」と感じていたのを覚えています。現在はもう、言うまでもありませんね。
入門モデルとはいえ、グレードや仕様を選んで購入するフルートは、決して安い買い物ではありません。楽器を選ぶ、購入する、ケースを持って移動する、家で触るなど、その全部が「フルートを自分の生活に組み込む」という彼女の意思決定です。
「とりあえず」と仰りさえしていましたが、グレードや仕様も調べて選ばれたのが、話しぶりから伝わってきました。私はそのとき、楽器のメーカーやグレードよりも、Jさんが「自分で楽器を購入してきた」という事実そのものに、価値とJさんの本気を感じていました。この頃のJさんの音は、最初の「なんとか出た」という音から、「楽器を鳴らせるようになり始めている」という感触に変わってきていました。
息が楽器に乗るようになってきた。ただ音が鳴る、という段階は越えようとしている。体が、フルートという楽器の鳴らし方を、少しずつ覚え始めていたのです。
4. 1年後、好きな曲の難しいところが吹けた

レッスンを始めて1年が経つ頃には、Jさんのカリキュラムに大きな変化がありました。Jさんにはご説明した上で、お好きな曲と並行しながら、クラシック、つまり基本の「き」にあたる部分から基礎を学んでいただいていました。フルート演奏の基礎や楽譜の読み方、構え方など、ここからでないと学べないからです。
教本での基礎と並行して、入会当初からJさんが好きなジャズの曲にも取り組んでいましたが、最初は簡単なものや短いフレーズから始めていました。それが1年後には、好きな曲の中でも難易度の高いもの、ずっと吹いてみたかったけれど手が届かないと思っていたものに、少しずつ手が届くようになってきていました。
レッスンのあとに「今日は少し違う感じがしました。少しなんですが、由佳先生が言っていた『音楽した感じ』がしました。」と楽器を片付けながらJさんが仰ったのを、今でも覚えています。その「少し違う感じ」が、上達の入り口・音楽の入口です。
「聴いていた音楽を、自分で鳴らせる」という感覚は、言葉で説明できない、体験した人にしかわからない格別なものがあります。特別感・憧れ・脳内で鳴らしていた自分の音楽のアウトプットなどが代表例です。
長年、好きな音楽を「聴く側」として過ごしてきたJさんが、少しずつ「演奏する側」としてその音楽の中に入り始めていた瞬間でした。
5. 1年を過ぎた頃、忙しい日々の中で、フルートが「自分の時間」になっていった

フルタイムで働きながらレッスンに通うということは、体力だけでなく、スケジュールとの兼ね合いもあります。1人暮らしだと、そこに家事なども上乗せされます。Jさんは仕事の繁忙期が続く中でも、できる範囲で練習を続けてくださっていました。
音楽を聴くことには、脳内でドーパミンの分泌が促進され、モチベーションを高める効果があることが研究で示されています。長年ジャズを聴きながら仕事やご自身の生活に向き合ってこられたJさんにとって、音楽はすでに集中や気持ちの切り替えを支えるものでもあったのではないでしょうか。そして同時に、完全にご自身の生活に馴染み、溶け込んだものでもあったのでしょう。
そんなJさんでも、「吹く」「演奏する」ことは、それとは全く別の体験だったと仰っていました。息を作って、唇を調整して、指を動かして、音を出す。その集中の中では、仕事のことは勿論、雑念や考え事などを考えている余裕はないのです。
「吹いている間は、余計なことを全部忘れられる気がします。音楽や吹き方のことは考えながらも、瞬間的に『頭の中が空っぽ』になるというか『解放される』というか…」
Jさんのこの言葉を、私は暫く噛み締めていました。
これは、所謂「脳のゾーン・トランス状態」に近いものであり、それの導入状態ではないか? と感じました。Jさんはご自身のお仕事で、脳がスイッチを切り替え、目前のことに全集中し、最大のパフォーマンスを発揮する、ということを実行されていたのでしょう。これを、音楽にも反映させられるようになり始めているのではないか、と感じていました。
こういったことを、場数をこなすことで習得していくケースも多いのですが、Jさんは、普段のお仕事の中でこれを既に習得されており、さらに別分野に応用しようとしている。これは凄いことで、中々できることではありません。
それはフルートの上達という話だけでなく、Jさん自身が、自分のための時間を取り戻していく話でもあるように感じました。お仕事の状況が変わられ、レッスンを一区切りにされることになったとき、Jさんは「いつか、また続きをやりたい」と仰り、その目はきらきらと未来を見据えておられるように感じました。
Jさんの「いつか」は、必ずまた訪れると、私は確信を持っています。何故なら、彼女は既に一度「いつか」を現実に変えられたのですから。
最後に
「音楽経験がないから、始めるのが怖い」「楽譜が読めないと無理かも」と、お感じの方へ。
Jさんは、楽譜の読み方・音の出し方も、何ひとつ知らない状態からフルートを始められました。楽器自体のご経験がない彼女にとって、「フルートの体験レッスンに行く」というのは、どれだけ勇気が必要で、ご不安なことだったか、と今でも切に感じます。
好きな音楽がある。その気持ちが、最初の一歩になります。
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まずはお気軽に、あなたの「こうなりたい」は勿論、ご不安も一緒にお聞かせください。
補足情報
著者情報
「やってみたい」と思ったとき、それが何歳であっても、どんなに忙しくても、その気持ちは本物だと私は思っています。初めてのことに踏み出す勇気は、年齢を重ねるほど難しくなると言われることがあるのではないでしょうか。
しかし、人生経験を積んだ方ほど、音楽への向き合い方が深く、自分のペースで着実に変わられる姿を、私は何度も見てきました。それは同時に、技術や方法を学ぶのはいつからでも始めることができ、また、これまでの人生で積まれた経験が音楽に生きるという証拠でもあると感じます。
あなたの「いつかやろう」が「今やろう」に変わった瞬間を、私達はいつも大切に受け取りたいと思っています。
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